HISOTRY 1998

ツール・ド・信州 1998 (北山杉'98)

(京都大学サイクリング部の部誌『北山杉』向けに書かれたレポートです。)

 

ツール・ド・信州1998

報告:近藤淳也

 

ステージレースを作ろう

「山岳コースのステージレースみたいなのがあったら良いなあ」なんて言いだしたのはいつだったか。確か3回生の頃だったと思う。車に乗ってレーサーツアーとかに行っていた頃だ。「もう一度夏合宿の班長が出来たらどんな班を作り出せるだろう」と考えていた。日本縦断班をやってよかったけど、新しい可能性としてほかに何が出来るのかなと考えた。もしもう一度出来るのならこれしかないと思ったのがステージレースだった。

ステージレースというのはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアに代表されるように、毎日毎日次の街へとレースをしながら進んでいくものだ。ツール・ド・フランスの山岳ステージの攻防には毎年ゾクゾクしながら見入っている。普段のツアーでも峠でバトルを繰り広げていたし、その峠を舞台にしてレースをやってみたいと思った。荷物は全部サポートカーに運んでもらって、空荷のレーサーで信州の峠をのぼりまくってみたい。

日本にはいろいろとロードレースがあるけど、公道を用いたレースは少ない。ましてやステージレースとなるとツール・ド・北海道、ツール・ド・とうほくくらいしか存在しない。ツアー・オブ・ジャパンもあるが、サーキットを転戦するだけなのでコース的には面白味に欠ける。一日だけのレースもほとんどはサーキットコースで、「どこかの街からどこかの街まで走る」というコース的にも面白さを備えたレースはなかなかない。

それに本当の山岳レースと言えるようなレースも少ない。日本にはこんなにいっぱい素晴らしい峠があるのに、それを使ったレースというのはない。ヒルクライムレースがあるくらいだ。標高差ではヨーロッパのアルプスやピレネーに引けを取らないくらいの峠があるのに。

というわけでそんなレースがあったらどんなにいいだろうと思っていたし、日本でそういうのをやったらちょっと面白いんじゃないかという事もあって真剣にそういう企画を考え始めた。竹村と「こんなんあったら面白いと思えへん?」なんて言いながらああだこうだと話をしていた。

そう思ってはいたものの、なかなか大変そうだし、そもそもうまくいくかどうか自信もなかったので出来たら良いなあくらいに思っていた。4回生で就職の試験に落ちて、大学院に行くことになって、ある程度暇が出来る見通しがついたときに本気で考え出した。信州の峠はそこら中のぼったし、耐久ランの運営の経験もあるし、車も動かせるし、ホームページで情報発信もできるし、レースが好きな仲間も多いし、僕がやらなきゃ誰がやるって言うんだ、ってなもんだ。

ほんまにできるんか??

まず京都府自転車競技連盟の人に、「こんな事やろうと思っているんですけど出来るでしょうか?」と聞きに行った。まあやれば出来るんじゃない?という答えをもらうが、今思うとよくこんな事を答えてくれたなあと思う。恐らくあの人たちは道路使用許可が取れないだろうということも、その他の色々な障害のことも十分知っていたんだろうけど、敢えてそう言ってくれたのだと今では思っている。こんな初めの段階で、「それは無理だろう」とか言われたらやる気をなくしていただろうけど、そう言うのを分かっていて励ましてくれたんじゃないかと思う。

少し自信を持って次にサイクルスポーツ誌のイベントブック(1年間のレースなどのスケジュールが載る本)に掲載の申し込みを出した。まだ何も決まっていないけど、とりあえず期日は81日~7日と決めた。自分のホームページの中にツール・ド・信州のページを作った。とりあえずロゴがいるなあと思って大会のロゴを作った(右肩にもあるこれです)。

 

4月に入って本格的にコースの選定に入った。前年の秋合宿を企画してだいたいのコースの案は頭の中に出来ていたので、それを元にキャンプ場の有無や交通量、迷いにくさ、スタート時の安全性などを考えながらコースを組んだ。富士山麓の西湖での個人T.T.からスタートし、7日目には渋峠へ至るコースが出来上がった。

コースマップを作り、大まかな大会要項を作り、ツール・ド・信州実行委員会委員長というまだ存在もしない組織の肩書きをつけた名刺を作って信州に乗り込んだ。

僕の初めの目論見では、要項を見せながら「大学生を集めてこんな感じでサイクリングみたいなロードレースみたいなことをやろうと思っているんですが、スタートの時だけは集団走行になると思うのでその部分の道路使用許可をもらえないか」とお願いすれば、わりと簡単に許可は取れるんじゃないかと思っていた。しかし実際に警察署に行ってみると、「今は公道でレースをやるような時代じゃないんだよ。もうそんな新しいレースやら祭りやらを作ることは出来ないんだよ。」とか、その他散々に言われた。いきなり警察にいってもだめだから今度は役場に行って町にお願いしてみようなんて考えて役場に行ったりもしたが、全然取り合ってもらえなかった。せっかく意気込んで下見に行ったのに、随分元気がなくなってしまった。「やっぱり無理なのかなあ」と思いながら、一応群馬、長野、静岡、山梨のコースの通る管轄の警察署を全部まわり、話をしてみた。初めに行った群馬の警察署のように、頭ごなしに否定されるところもあれば、上に聞いてみるので連絡先を教えてくれと言ってくれるところもあった。けどもだいたいは否定的な返事しかもらえなかった。

しばらくすると23の警察から「許可は出せない」と言う返事が返ってきた。いろんな人を集めてやる以上きちんと許可も取れていないようなことをやるとまずいし、けども許可も取れないんじゃやっぱりだめなのかなあとも思い、すっかりやる気をなくしていた頃、森下がやれる範囲でやってみたらというような事を言った。せっかくここまで来たんだし、それもそうだなと思い直してとにかくメンバーを集めて準備をして、出来る範囲で実現してみようと考えた。なにも初めから立派な大会じゃなくてもいいじゃないか。少なくともいつもやっているツーリングならば、なんの違法性もなく実現は可能なのだ。あとはそれにどれだけステージレースという要素を盛り込むことができるか、と言う風に考えることにした。サイクリングを基本に考えることで、それは実現可能に思えたし、とても気が楽になった。というわけで何人かに声をかけて、東後、森下、平田、しんじの4人が集まった。とにもかくにも実行委員会結成だ。

ツール・ド・信州が出来るまで

それから毎週のように実行委員会を開いて色々な準備をした。保険に入ったり、キャンプ場を予約したり、スポンサーを捜したりそんな色々な準備をみんなで分担して進めていった。リーダージャージはどうしても欲しかったのでパールイズミのオーダーで作ることにした。デザインは乗鞍岳の写真を元に山の絵を載せることにした。(こんなかんじ。絵は本当は青色です)


 

それから同じデザインを使って参加賞とスタッフ用のTシャツも作った。(こんなのです)

回を重ねているうちに実行委員会のメンバーも増えて、水野、矢澤なども手伝ってくれるようになった。

大会の正式な要項を作って、要望のあった人へ郵送した。しかし肝心の参加者は、色々な大学にメールなどで参加を呼びかけたりもしたけど、1週間という長さや、キャンプ生活・スタッフやサポートカーの確保がネックとなったのか、ほとんど反応が返ってこなかった。そんななか、サイクリング部と自転車競技部の人たちが参加を申し出てくれて、なんとか開催にはこぎつけられそうになった。当初はいろいろな大学の人に参加してもらって華やかにやりたいと思っていたけども、初めの目論見とは違ってずいぶんとローカルなものになってきた。そんなときに東京農工大の庄司さんが参加を表明してくれて、その後、レース会場でツール・ド・信州の存在を知った摂南大の桜井くんも出ることになった。大会期間中のスタッフはBOX張り紙、ホームページ、競技部BOX、KUCC-MLと色々な手を使って集めたが、なかなか上手く集まらず、うちの母親までも呼んでぎりぎりでようやくなんとかなった。

大会の直前には竹村が自転車雑誌のサイクルスポーツ紙とファンライド誌の編集部に乗り込んでいって、ツール・ド・信州の記事を載せてくれないかと頼んでくれた。サイスポは断られたが、ファンライドの方は2ページも割いてくれるということになり、さらにもっと早く言ってくれれば記者も来たと言うことだった。

道路の件に関しては、一応サイクリングと言うことにして無許可で走ることにした。いわゆる耐久ラン方式だ。

まあそんなこんなでいろいろありながらも、81日、富士山の麓の西湖のキャンプ場に、選手16人、スタッフ3人の総勢19人が集まり、1週間のツール・ド・信州が始まった。

以下、参加者の一覧。

 

参加選手

寺本直純

京都大学BOMB

篠塚伸一

京都大学BOMB

高橋博樹

京都大学BOMB

斎藤真規

京都大学BOMB

平田良治

京都大学BOMB

矢澤真幸

京都大学BOMB

近藤淳也

京都大学BOMB

東後篤史

京都大学自転車競技部

篠原朗大

京都大学自転車競技部

村恒志

京都大学自転車競技部

青石勉

京都大学自転車競技部

山本耕平

京都大学自転車競技部

小嶋洋介

京都大学自転車競技部

西村拓朗

京都大学自転車競技部

庄司真陸

東京農工大学

桜井悟朗

摂南大学

 

当日スタッフ

竹村信泰

スカイライン運転 ほか

今井拓也

バン運転 ほか

森下智美

会計・チェックポイント・食料ほか

大久保康

カペラ・クレスタ運転 ほか

谷田貝宇

マーチ運転 ほか

近藤春美

マーチ運転 ほか

 

いよいよ本番

レースとしての展開などは、ファンライドの紙面を載せるのでそちらを参照。

当日のスタッフには竹村、森下の他に競技部の今井、大久保さん、それにずっと上のサイクリング部の先輩の谷田貝さん、それとうちの母親が来てくれた。特に竹村・今井・森下は始めから終わりまでずっとスタッフを通してくれて、本当に助かった。

今年は梅雨が長引き、7月下旬まで尾を引いたが、81日頃はちょうど梅雨も明けて好天に恵まれた。時折雨がぱらつく朝もあったが、大会中はほとんど晴天に恵まれ本当に良かった。

宿泊は全てキャンプ場だったので、普段テントで寝たりしない競技部の人たちはなかなかなじめない人もいたようだ。初日に10kmの個人T.T.を終え、夕飯を食べながらその日の表彰式と翌日のミーティングを行った。夕飯は普段のツアーと同じで、シチューとか豚キムチとかを森下が仕切って準備してくれて、大鍋3発で豪快に作った。その日の結果は東後のノートパソコンで処理して、成績表を毎日プリントアウトして発表した。記念すべき初回のリーダージャージはT.T.で優勝した東後に授与され、翌日のステージで着用する権利を勝ち取った。キャンプ場では毎日、夕飯の前に竹村や今井と翌日の車の動きや、スタッフの分担、その他の打ち合わせをした。これがなかなか難しくてまるでパズルみたいだった。まあパズルは好きなのでいいんだけど。

2日目から本格的なステージレースにはいった。第2ステージでは競技部の活躍が目立ち、さすが、と言う感があったが、その後日を重ねるに連れてサイクリング部の人間がどんどん成績を伸ばし面白かった。

第2ステージの途中で富士登山駅伝に遭遇してしまい、予想外の一時中断を強いられた。また、山岳コースを休み無しで走ることがどれくらい厳しいかも思い知ることになった。最後の富士スバルラインでは、なんと全員が食糧補給や疲労のために途中で止まるという事態になった。普段、峠の手前で止まって、頂上まで登ってからまた休んで、という走り方はやっているけれど、それと同じ感覚で走っていては全然だめだということが分かった。とにかく大量の補給食が必要になる。それを考えるとツール・ド・フランスとかがいかにすごいことをやっているかというのがよく分かった。そんな中で競技部1回生の小嶋が2位に入る健闘を見せ、そのスタミナにみんながびっくりした。篠塚はマイペースで富士山5合目にやってきて2日目にしてすでに2時間20分もの遅れを背負った。

競技部の人たちは1400upもある峠なんて初めての人がほとんどだったので、1時間も2時間も登り続けるという体験を初めてして驚いていた。「すごい良い経験になります」と青石や中村などの何人かに感謝されたが、それも初めの頃だけで、日程も終盤になってくるとさすがにみんなでかい峠にも慣れて疲れてきたのか、ぐったりといつまで続くのかなあという表情で黙っている人もいて少し悪い気もした。

3日目、第3ステージはのぼって下りてのぼって下りて…と4000upもするコースだった。コースのプロフィールマップを見て競技部の山本が「山切りカット」みたいだと言った。くだって登り始めるところがVの字型になっているので、そこに自転車がはまりこんで走れなくなるんじゃないですかと訴えられた。初めの人がはまりこんだら、あとの人はその上を走れるから大丈夫だよと答えた。

この日、クリスタルラインの下りで篠原が落車し、ガードレールを越えて数メートル下へ転落する事故があったが、幸いにも身体・自転車の損傷は軽く、そのまま走る事が出来た。これは本当に運が良かった。

最後の麦草峠を登り終えると山本から「もう帰りたい」発言が飛び出した。あまりに厳しいコースに、「今回のコースは近藤さんの限界に設定されているのじゃないか」説が浮上し、競技部の人たちが警戒し始めた。

この第3ステージで近藤家のカペラが損傷。まともに走れなくなってしまった。キャンプ場についてから車を修理工場に持っていき、修理を依頼して車が一台減ってしまった。それで、初めは使う予定の無かったマーチを急遽使うことにして、翌日からもなんとか続行できるようにした。しかしこの時点で全員を車に乗せて運ぶ事は不可能になり、ぎりぎりの運営を迫られることになった。

翌日の第4ステージではついにリタイア者が出た。中村が朝、膝の痛みを理由に棄権をした。連日の峠道で膝を痛め、さらにインカレ、ツール・ド・北海道などの大事な試合を控えているので無理は出来ない。前日まで山岳ポイントでトップを走っていただけに惜しかった。ところが中村の棄権で摂南大の桜井が俄然やる気を出して峠を狙いに行くようになった。この日から着実にポイントをためていった。

この第4ステージでは、僕や東後の総合上位集団から、先行する集団が逃げる展開になった。野麦峠を越え、ゴールの美女峠まで下りと平坦路だけ、というところで山本が先頭を単独で走っていた。ドキドキしながら平坦路に入り、優勝に向けて走っていたにも関わらずトンネルでパンク。ここで後ろの篠原に抜かされたらしい。その後篠原は30秒に一回くらい後ろを振り返りながら逃げ続けたという事で、ステージ優勝を喜んでいた。

次の日の朝、森下が車のカギにドアのカギとエンジンのカギがあると勘違いしていてカギを持ったまま他の車に乗って移動してしまったりする騒ぎがあった。その後森下は、「それはドアのカギ?」なんてからかわれていた。

この日乗鞍岳を登り、選手の中にもかなり疲労が見られてきたので翌日のコースは短縮した。はじめは松本から美ヶ原林道をのぼって武石村に下りてそれからもう一回美ヶ原にのぼってそこからビーナスラインを全部走って、そのあと大河原峠に登って小諸に下りて、最後に車坂峠に登るという、ツアーではとてもじゃないけど考えられないようなコースだった。第3ステージの事も考えると実現不可能なコースではなかったけど、選手が疲れていることに加えて、大河原峠の下り道が荒れていることや、小諸周辺の道が迷いやすい事もあって短縮した。それでも寺本さんや篠原のように車坂峠にいくことを楽しみにしていた人もいて、少し悪い気がした。

この日、カペラに続いてスカイラインもおかしくなった。クラッチペダルがすかすかになってどうもおかしかったが、気合いで運転して続行した。

そんなこんなでいろいろありながらも最終日を無事(?)に迎えた。

最終日は総合2位につけていた東後が試合の調整のために出走せず、さらに前日のステージレースで獲得した靴下を地蔵峠の勝者に与えると宣言した。競技部1回生の西村が靴下めがけて初めの鳥居峠からアタック。一人で逃げ続けて靴下をゲットした。しかし、峠で賞品の靴下に履き替える暇もなくそのまま逃げ続ける。延々と逃げ続けなんと最後の渋峠の入口では9分ほど後続に差を付けた。ここから桜井が猛追を見せるが、なんと30秒差まで詰め寄りながら届かず。結局西村が大金星を飾った。

最終日は翌日以降の日程もなく、みんな本当にお疲れさまでしたという事で志賀高原のキャンプ場で乾杯をした。一応やっとかなあかんやろということでシャンペンを買ってきて、シャンペンシャワーをやった。これは総合優勝した僕がやったのだけど、なかなか気持ちのいいものだった。ちょっと勿体ないけどね。僕は主催者でいて優勝なんかをしてしまったのでちょっとおかしかったけど、まあ仕方ない。山岳賞は結局後半ポイントを荒稼ぎした桜井が獲得した。リーダージャージは2枚あって、それを洗濯して着回ししていたので、僕がもらったのと違う方のジャージを山岳賞ジャージとして桜井が獲得した。お疲れさまあってお酒を飲むんだけども、本当にみんなお疲れさまだったようで、宴もほどほどに一人、また一人と眠っていった。

大会を終えて

というわけで大きな事故もなく、それから心配していた大きな迷子もなく(やっぱり多少はあったけど)1週間が終わった。

何か新しいことをやろうと思うと本当にいろいろとあるけれど、それでもなんとかやってみて本当に良かった。一緒にツール・ド・信州を作り上げた実行委員会の人たちもそう思っていてくれるといいなあと思っています。皆さんお疲れさまでした。そしてどうも有り難う。

来年は…という話があるけど、出来れば第2回をやりたいなあと思っています。

 

ツール・ド・信州1998

 


 

期間 199881日~7

大会ホームページ

http://www-geod.kugi.kyoto-u.ac.jp/~jkondo/tour

 

ツール・ド・信州実行委員会

近藤淳也

東後篤史

田中慎司

森下智美

平田良治

竹村信泰

矢澤真幸

今井拓也

水野隆雄

壇上伸郎

 

 

©Junya Kondo 1998