HISOTRY 2001

小嶋最強伝説 - 近藤淳也

小嶋最強伝説 〜2番車から見た今年の信州を振り返って〜

小嶋の3連覇を誰が妨げることができるのだろう。4回目を迎えるツール・ド・信州を前に、そんな疑問を抱いていた。

小嶋が信州に初参加したのは第1回大会。当時まだ大学1回生だった彼は、富士山スバルラインを上る第1ステージでいきなり2位に入り周囲を驚愕させた。今から思うと、その時に既にその強さの片鱗を見せていたのである。ツール・ド・信州の場合、選手にはそれまでに経験もしたことの無いような疲労感がステージ後半に襲い掛かる。それもそのはずである。これほどスタミナを消費するコースで行われるレースは無いし、ましてやステージレースともなればなおさらである。そんなスタミナ勝負の後半に、1回生が一人勢いを落とさずに先輩を抜き去り、富士山五合目に駆け上がったのだから、現在の強さがあっても納得できるわけだ。

その小嶋は翌年一気に王者へと駆け上がる。前年優勝の近藤が運営に回り、東後が一線を退き、次なるリーダーは誰なのか期待された大会だったが、終わってみればステージ4勝をあげた小嶋の圧倒的な勝利だった。ただしこの年は、2つのステージで優勝を逃している。

翌年、第2回大会で小嶋を苦しめた中村、小山は第一線を退き、向かうところ敵無しと思われた中で好敵手として現れたのが寺本だった。第1ステージでは小嶋に独走を許したものの、続く第2ステージでは寺本がまず一つ目の峠をスプリントで制すると、その後もぴったりと小嶋をマークし最後のぶどう峠まで2人の勝負は絡んだ。ここで寺本は痛恨のパンクをしてしまい勝負を逃すが、パンクをしても3分差でゴールし小嶋をおびやかした。翌日寺本はリタイアをしてしまうが、山岳ステージで小嶋に立ち向かうことができたのは寺本だけであった。しかしこの年も、小嶋はプロローグで山本に敗れ、第2ステージの浅間峠で寺本に敗れていたのである。

さて、これほどの強さを誇った小嶋だったが、その他のロードレースの成績はどうだったかといえば、それほど目立った成績を収めていたわけではなかった。これが自転車競技の不思議というもので、ツール・ド・信州では全く小嶋に歯が立たない西村、渡邉等の京大の選手の方が、学連レースで入賞するなどの活躍をしていたのである。そのために、「信州だけはやたらに強い小嶋」という認識が一般的になりつつあった。

そんな中で向かえた2001シーズン。小嶋は夏までのシーズン前半で優勝2回、準優勝1回、全日本学生選手権6位、国体京都府代表選手に決定するなど、前年から遥かにレベルアップを果たしていた。ただでさえやたらと信州が強い男が、他のロードレースでもこれだけの成績を出し始めたとなると一体信州ではどんな走りになってしまうのか、想像もつかなかった。

そんな中、今年は実業団のBR-1で走る山根が信州にエントリーする。通常のロードレースで言えば格上の山根と、そして昨年小嶋を苦しめた寺本などがどれくらい勝負に絡めるのかが注目された。

そしていよいよ始まった2001年のツール・ド・信州。プロローグに遅刻して、「アップ不足だったよ」と言う山根が小嶋と同タイムを叩き出した。山根が正式なスタート時刻に遅れたために、リーダージャージは小嶋が着ることとなったが、この同タイムは新たなライバルの出現を十分に感じさせた。

第1ステージ。ステージ序盤からいきなりカテゴリー超級のしらびそ峠がそびえる。この峠で早速小嶋は自ら攻撃に出た。小嶋はヨーロッパ流のステージレース独特の流儀など、全く解さない男である。レース序盤はステージ優勝や山岳賞狙いの選手に見せ場を作らせ、最後に攻撃に出て総合優勝をモノにするといったセオリーは持ち合わせていない。山岳ポイントだろうと何だろうと、目の前に勝負という文字のついたものが現れれば全力を尽くさずには居られないという性質なのだ。そしてまた、そのやり方が通じてしまうほどの実力の持ち主である。

一方山根はしばらく小嶋と並走するも、下栗の集落が終わる頃に微妙な差を小嶋と開けてしまう。恐らくこのとき山根は、体力の限界でついて行くことができないという状態ではなかっただろう。実際レース後には、「泳がせようと思った」と語っている。小嶋との間に開いた微妙な差は、しかし、5秒が10秒、10秒が20秒と徐々に徐々に広がっていく。そしてしらびそ峠につく頃には、1分差に広がってしまう。

通常であれば、残り90kmを残しての1分差など、すぐに詰められる距離である。集団で追えばすぐに追いつくのがロードレースというものだ。しかし、現在のツール・ド・信州にはあまり集団の理論は働かない。カテゴリー超級の山岳でバラバラになった集団は、多くて3人、しかも次の峠が来ればすぐに各選手の力の差が見え始めてしまう。

小嶋の苦しそうな表情に騙されてはいけない。彼は本気で勝負をかけるとき、決まってどうしようもなく苦しそうな表情を見せる。そしてまた、小嶋のアタックは全然華やかではない。苦しそうに、苦しそうに、徐々に差を広げる。このアタックを見たものは、「何もそこまで無理をしなくても」という印象を抱かずにはいられない。そして、「しばらく泳がせておいてもそのうち追いつけるだろう」と思ってしまう。しかし、これこそが小嶋の戦略なのである。

小嶋の最も得意とする戦法は、早い段階で差を広げ、その差を維持したまま逃げ切るという方法である。昨年第1ステージでも、矢澤、寺本の2位集団がずっと小嶋を視界に捉えながらも、最後まで追いつくことができなかった。彼の優勝を阻むためには、この差をつけてしまってはならないのである。

しらびそ峠の序盤で先頭集団に食らいついていた寺本には、昨年の経験からこのことが分かったいたのだろう。小嶋、山根の先頭集団に顔を歪ませながらも加わっていたが、社会人となって練習時間が満足に確保できていないこともあるのか、昨年のように小嶋のペースについて行くことができずに脱落してしまう。この日はステージ5位に終わってしまったが、多少の無理をしてでも現在考え得る最良の策を自ら実践し、そして散った潔さが印象的だった。

さて、しらびそ峠を越えるとレースの方は先頭小嶋、1分遅れで山根、そこから2分遅れで3人の集団という展開になる。微妙な差が前後にあいてしまった山根は結局ゴールまで独走を強いられ、小嶋の優勝を許してしまう。しかし山根の判断も絶妙であった。2分後ろに3人がいるとなればその3人を待つという選択肢もあったが、早い段階で方針を転換し単独での追走の覚悟を決めたのがこれまた潔かった。チェックポイントでは1分にまで後続との差が縮まったが、結局最後は小嶋から9分遅れ、後続とは4分差でゴールする。

続く第2ステージ。第1ステージのゴール後「作戦を練り直す」と語っていた山根がやはり小嶋を捕らえて離さない。序盤の峠が短いこともあって、地蔵峠、長峰峠と二つの峠を越えてなおも先頭集団は4人で形成されていた。野麦峠で本格的な上りが始まると、矢澤、藤田が遅れまたも小嶋・山根の二人の勝負になる。野麦峠中盤、ビデオカメラの前で「そろそろいきますか、アタック」とおどけた小嶋が攻撃を開始。言動はおどけていても、その内心は恐ろしいほどに貪欲である。半分洒落のように見せたこのアタックも、恐らく彼の中ではステージ優勝に向けての全力の攻撃だったのであろう。またしても山根との間に微妙な差が開いてしまう。小嶋が強いのはここからである。傾斜が緩くなるところがあると(運悪くも野麦峠にはこういうところがたくさんある)、一気に30km超までスピードにのり、断続的に差を広げていくのだ。急傾斜になると山根との差は若干縮まるものの、まるでアコーディオンのように開いたり縮んだりしながら、しかし着実に差は広まっていった。結局この日も野麦峠で開いた差は最後まで縮まることが無く、14分差で小嶋がステージ優勝を飾る。

小嶋を序盤に逃がすとそのまま行ってしまう。しかし、初っ端から勝負に付き合うには体力的に過酷過ぎる。どこにも隙が無いかのように見える王者をどうやって攻略すればよいのか。その答えを、翌第3ステージで山根が見せてくれた。

この日は初めからカテゴリー超級の武石峠越え。いつものようにスタート直後から単独の逃げ体制に入る小嶋を泳がせ、この日山根は後方で集団を形成した。藤田、渡邉、吉田の3人を従え、4人の集団でペースを作り武石峠を上っていく。下りで吉田が遅れるが、武石峠で先行していた笹井を吸収し、次の美ヶ原(カテゴリー1級)で依然4人集団。前の小嶋とは2分。この上りで「今日は勝つ」と言い放った山根はボトルの水を捨て、3人を一気に置き去りにして小嶋の追撃に入る。序盤無理をせず集団で力を温存し、中盤からの勝負にかけようとしたのだ。2分あった差はみるみるうちに縮まり、峠の中盤で1分となった。ここでタイム差の変化を知らされた小嶋がペースをあげて差を保とうとするが、山根の方が勢いがあった。

そうこうしていると小嶋が片側交互通行の信号につかまってしまう。この信号で小嶋は30秒ほど待たされ、ようやく青信号になって走り始めると、ちょうどその時、後ろのコーナーから山根が姿を現した。するとすかさず山根は、「何秒待った?」と叫んだのだった。そして待ち時間を聞いた山根はそこで足を止めたのである。前を行く小嶋に追いつくことだけを考え猛追して来たはずの選手が、咄嗟にこのような行動に出るということは、並大抵のことではない。はっきりとしたレース哲学があってこそであろう。それを山根は持ち合わせていた。

なぜか、ステージレースのライバルには友情のようなものが感じられるものだ。2000年ツール・ド・北海道のエリックと橋川や、今年のツール・ド・フランスのアームストロングとウルリッヒのように、トップを競い合う選手の間にはこうした友情を感じることが多い。信号待ちだけでなく、もう一つ山根の哲学を感じたことがある。

アシストの力などは一切使わずに、完全に自分の力のみで勝利を築いている小嶋に対し、あくまで個人の力で挑もうとした姿勢にも賞賛を送りたい。他の実力選手で順番に小嶋を消耗させるといった作戦も考えられただろうが、敢えてそれをせずに自分だけの力で戦いを挑んだ山根は最高のライバルであろう。「このレースは、個人対個人の戦いなんだと分かった」と語っていたその言葉が、それを物語っている。

さて、その山根は信号のあとも追撃を続け、美ヶ原の下りでついに小嶋に追いついてしまう。そのままビーナスラインを超え、勝負は最後のカテゴリー1級、麦草峠に持ち越される。あとは上るだけという最後の20km、山根は前半の急斜面で満を持して攻撃に出る。急なヘアピンカーブのインから軽やかなダンシングでアタックを仕掛け、小嶋との差を広げにかかる。小嶋も負けず、差を詰めなおすが、2度、3度と差が開くうちにとうとう差を詰められなくなり山根のアタックが成功。じりじりと小嶋との差を広げていく。ついに最後の峠で先頭に立つことに成功した山根、視線は遥か前方を見つめ勢いがみなぎっていた。一方の小嶋はいよいよ限界という表情で顔をしかめながら走る。しかし小嶋もまた、諦めてはいなかった。忍耐という言葉がぴったり来る走りで山根の背中をにらみ続けていた。二人の差は一時は23秒まで開くが、ここから状況が変化する。峠の傾斜が徐々に緩くなり、小嶋が得意とする傾斜が始まったのだ。20秒が15秒になり、10秒、5秒と縮まるとついに小嶋が山根に追いついてしまった。ラスト3km。10km以上続いた山根の逃げが終わってしまう。コーナーを3つほど曲がったあと今度は小嶋がアタック。これに山根が反応できずに結局またもや小嶋が優勝。山根は2位に終わった。山根には、ゴール直前で仕掛けてステージ優勝を狙う戦法もあったのだろうが、あくまでリーダーとしての小嶋に挑戦を仕掛けた攻撃は素晴らしかった。

もし、という言葉に意味は無いのかもしれないが、もしも麦草峠が急傾斜のまま終わっていれば、最後は違った展開になっていたかもしれない。そういえば2年前、筑波大の小山が小嶋を振り切って優勝したときは、最後が急傾斜の連続の舟山だった。

そして迎えた最終ステージ。結局ここまで小嶋はすべての峠を先頭通過し、完全優勝のペースで来ている。前日ついに限界を垣間見せたリーダーだったが、完全優勝を阻む者は現れるのか。この日もスタート直後から小嶋は逃げた。山根は集団を形成する。5つもの峠を越えて、最後に標高差1900mのカテゴリー超級、大弛峠が待ち受ける第4ステージ、大弛峠だけでも約2時間は上り続ける計算になる。大逆転があるとすれば大弛峠だろうが、この日大弛峠の入り口で小嶋と山根の集団は10分もの差が開いていた。それでもやはり攻撃に出た山根だったが、なんと峠の後半でパンク。一時は6,7分まで差を縮めたと思われるが、勝負はここまでだった。その後ろから来た寺本が15分差の2位に入るが、小嶋は完全優勝を達成して戦いは幕を閉じた。

毎日毎日作戦を変え、小嶋に果敢に挑み続けた山根にパンクの不運が訪れたのは残念だったが、孤独を全く恐れず、毎日たった一人の力で勝ちつづけた王者に、勝利の女神は微笑んだのかもしれない。

小嶋本人自身、「強欲なんです」と自認するこの戦法がいつまで続くのか。全ての山岳ポイントを先頭通過するという常識では考えられないような勝ち方ができるのは、一方でまだツール・ド・信州がステージレースとして未熟な証拠かもしれない。しかし、それを差し引いても、小嶋の強さは圧倒的だ。この先、この完全優勝を再び達成する者が現るのかどうか、それは非常に疑わしい。また、その勝ち方が出来ないくらいに洗練されたステージレースとなっていくよう、ツール・ド・信州が発展していくことも望んでいる。しかし、そうなったとしても、彼の築いた3連覇の軌跡は後々まで伝説として受け継がれるであろう。(近藤淳也)